『HANABI』を見て
ビートたけしをはじめて見たのは二年前だ。それは、もちろん生身の人間ではなく、深作欣二の監督した「バトル・ロワイヤル」という映画の中だ。ビートたけしは、その中で生徒たちの殺し合いを傍観している――いやむしろ楽しんでいるではないかというような気さえした――気味の悪い担任の先生を演じていた。その映画は、私にとっては衝撃的だった。余りの凶暴さに、余りの血なまぐささに、驚いた。或いは、そのような人間の残虐な殺し合いを平気に見ていられるだけの、一種の勇気みたいなものが私にはないのかもしれない。はじめのうちは、「何だよ、これは」と不満ばかりをつぶやいていたが、抵抗を感じながらかろうじて見終えた。すると、自分の中にある種の漠然とした変化が起こったことに気づいた。前の恐怖感も憎悪感もいつの間にか、遠くへ吹き飛ばされたような気がした。それに取って代わったのが、心に響いた一種の宗教的静けさだった。「見つめていられないものは、空に輝く太陽と死である」という言葉を思い出した。
同じく空に輝くハナビも実は、じっと見てはいられないのである。一連の突発的な死を見てきた、先にもまた死が待ち構えている主人公には、紺碧の夜空に溶けていく美しい花火の輝きは、どう映っているのだろうか。生は、実に死と紙一重の差しかない。それは、花火が一瞬空に輝いたらすぐ消えさるごとく、はかないものだ。もともと刑事をしていた主人公の西は、常に生と死の縁に立たされる存在であった。それだけに、彼は人一倍生のはかなさを承知している。だから、同僚を失い、妻に余命わずかしかないという事実に直面している彼は、慌てることも恐れることもなくこれを素直に受け取った。その反面、彼は人一倍に生の楽しみを味わい、また回りの人々に味わわせている。また、いつも死の危険にさらされ、いつも死ぬ覚悟をもっているからこそ、彼は徹底的に死の恐怖を忘れて、冷徹に物事を眺めている。死んだ同僚の未亡人のために銀行強盗をやることも、やくざを撃つことも、いささかの恐れも見られない。まるで設定済みのプログラムどおりに、エラーもなく、滞りもない。この意味において、彼はもう死生を超えた超越的存在になってしまったように思える。しかし、われわれ観客には、彼の心情を本当に理解することが出来るだろうか。私は、到底難しいと思う。なぜなら、われわれはあくまでも彼の心を推測しているだけだ。われわれは普段、死ということを真面目に考えることを極力忌避し、生もあまり意識していない。主人公のような絶望的な境地に陥ることもない。この映画は、どちらかといえば、われわれが主人公に対して生じた感情の如何にかかわらず、われわれを強引に主人公の置かれた絶望的体験に巻き込むことによって、われわれを日常的生活(生)の退屈さの中から、普段はわれわれの中に潜んでいる死の危機感を呼び覚ました。さらにそれによって「生」の実感をもたらしたのである。すなわち、われわれを普段の「生」への無意識からしばらく解放したように思われる。
「HANA-BI」というタイトルが興味深い。英訳の「Fireworks」、中国語の「焔火、礼花」ともだいぶイメージが違う。Fireworksといえば、アメリカ人はインディペンデンス・デイの華やかな場面を頭に浮かべるのだろう。中国でも、「焔火、礼花」の打ち上げは春節、国慶節とか祝祭日に行われるのが普通なのだ。これに対して、日本では、花火は平日でも遊べるし、子供のおもちゃとしても親しまれている。また、なぜ「花火」「ハナビ」を採らなかったのか、ということも面白い。「HANA-BI」と名づけたのは、「花火」だけでなく、「花」と「火」ともとってほしいという意図も込められているらしい。映画の端端に挿入された「花」の絵、ピストルに撃たれた(火)人々の血は、鮮やかなに目に映った。それは、無表情に近い主人公の顔とは著しいコントラストをなしている。われわれは、知らず知らずのうちに、この色彩的な対照による緊張感のとりこになる。(黒澤明を師と仰ぐ北野武が、クロサワ流の手法を駆使することは、当然だろう)。また、突発的な暴力的な出来事の後、台詞もBGMもない静けさに、いきなりバイオレンスが起こると、われわれは胸をぎょっと引き締める。これは、きわめて日本的な手法だと思う。大学の頃、「水の東西」というエッセイを読んだことがある。日本のししおどしと西洋の噴水を対比するものだったが、その中にししおどしについての興味深い話があった。つまり、ししおどしの竹筒に水が引かれて、水位の上昇とともに緊張感が高まっていく。そして、竹筒に水が溢れるや、重心が移り、水がこぼれ、緊張感も一気に解消する。ちょうどその瞬間、反動で竹筒が跳ね上がり、竹筒の尻が地表の石をたたいて音を出す。その音の響きが静かな時間の流れを突然断絶することによって、時間の存在感を浮き彫りにする。音は、いわば時間の刻みとなってしまう。(これは、日本の能や相撲など伝統芸能の中に見られる「間」の思想と一脈相通ずるように思われる。)「HANA-BI」のバイオレンスと静寂(動と静)の繰り返しは、これと似通った仕掛けだと思う。暴力の突然行使で、時間が急に止まって、また静かに流れていく。われわれは、この映画を通じて時間ないし生命を捕捉した満足感に陶酔しながら、時間ないし生命の緊迫感に喘いでいるのではないだろうか。
主人公と妻の間のやり取りは、意味深い。言葉にすると、壊れるものがある。それに、言葉は、口から発せられて空気に触れてはすぐ消えていく、一過性のものである。言葉という媒介がないと、かえって深く相手の心に伝える。「以心伝心」というものだろうか。
「HANA-BI」を見ていると、中国の顧長衛監督の「孔雀」を思い出した。たいぶ違うものの、何か根本的に共通するところがあると思われる。二者ともに、「生」の息苦しさというようなものをうまく表現しているのではないだろうか。
