『千と千尋』を見て

千と千尋の神隠しをあわせて3回見た。一回目は大学3年生の頃だった。興味本位で見たので、物語のあらすじだけ覚えていた。言葉の困難もあって、はっきりと聞き取れなかったが、「千と千尋の神隠し」というタイトルが気になった。もともと「神隠し」にあたる訳語は中国語には無い、いや正確にいえば中国の標準語には無いのだ。日中辞典を引けば、大体「行方不明」と説明している(ちなみに、韓国では「千と千尋の行方不明」と訳しているそうだ)。中国語版は、「神隠し」を持て余すらしく、結局「千と千尋」だけになっている。後になって、この「神隠し」を的確につかむヒントを得た。実際、私の出身地には、神隠しをいう言葉もあり、また神隠しの物語も多く残している。私も、小さいころ、日が暮れたら、遊びに耽って家に帰ることを忘れるようなとき、大人から「早く帰らないと、神隠しにあうぞ」とせかされたものだ。だから、私には「神隠し」の物語は、きっと一種の、鬼気迫る気配があるに違いないという先入観があった。幸い、その先入観の色眼鏡をかけずに、「千と千尋」を見ることが出来た。

「千と千尋の神隠し」は、何よりもまず10歳の少女千尋の成長物語だ。「神隠し」に遭った千尋は、「千」と改名され、本当の自分を忘却していく。千尋は、神に「神隠し」されたことにより、もう一つの自分(千)の中に迷い込み、帰り道を忘れ去っていく危機にさらされている。実際、人は誰にもこうした危機に直面する場合があり、それを乗り越えてはじめ成長していけるのである。だから、「神隠し」は、ある意味において誰もが遭遇しうる人生の節であり、千尋のくぐったトンネルは誰もが通らなければならぬ生活の唯一の通路だ。

もちろん、このドラマは決してそれだけにとどまっているわけではない。千尋の経験した一連の事件は、それぞれ象徴的意味を持っている。まず、これまで頼っていた父母が豚に変えられることは、これからはもはや父母のすねかじりが出来なくなり、自立していかなければほかに生きる道が無いということを示唆する。ハクに助けられた後、まずはかまじいのところへ行って働かくようお願いしろと言いつけられること、そして湯ばばのところへ契約を結びにいくことも、生きるには働かなければならないという生活の厳しさを教えてくれる。これは、高齢少子化の進展に伴う労働力不足化、また近年労働意欲を喪失した「ニート」という無業者の増加などの日本社会の現実を連想すれば、なおさら響きを持つように思われる。千尋の職場となった湯屋は、まさに典型的な会社、若しくは社会の縮図ではないか。この湯屋は、利益を得るには手段を選ばぬ湯ばばが経営しており、お金のタクトバトンの下で動いている。お金のためにあくせく働き、金持ちのカオナシに媚び諂う皆とは対照的に、千尋はカオナシから差し出された金を断り、大切な人を守るために手を尽くす。そもそも湯屋は人間が入ってはいけない世界で、誤って入ったら豚か何かに変えられ、自分の真の名前を思い出さない限り人間世界へ戻るはずが無い。そうするなら、カエル男も、ナメクジ女も、ハクも、ひいては蜘蛛の神みたいな釜じいも、おそらくもともとはこの八百万の神様の世界に誤って踏み込んだ人間だろう。ところが、彼らはいつの間にかお金に目をくらむか、魔法に呪縛されるか、もはや真の自我に立ち戻ることが出来ない。お金が土と化し、魔法の虫が踏み潰されたシーンは示唆的である。そこに、権力(魔法)・金銭至上主義への辛らつな風刺が込められていることはいうまでも無い。また、湯屋で起こった一連の事件では、いろいろな誘惑に惑わされて自我を見失う(自分の名前を取り戻せない)消費社会の人間像が浮き彫りになっている。千尋は、そんな誘惑に勝ったがゆえに、その世界から抜け出しえたのではないだろうか。しかし、千尋が誘惑に勝ったのは、彼女がすでに失ったものを守ろうとしたから、或いは彼女がまだまだ物分りの悪い10歳の少女に過ぎないから、という二つの解釈しか成り立たない。どちらであろうと、宮崎監督の現代社会に対する悲観主義がちらりと伺える。

アニメの中で、カオナシは無論特異な存在である。どこからとも無く、神秘的にたち現れた悲しげな人物。ハクについて父母を見に行く千尋に、もの寂しげな顔をして何か話しかけたいものがある様子が、心を動かす。千尋と同様に、カオナシも湯屋に入ってはいけない、いわば不安定なマージナル・パーソンである。同じような処遇に置かれた千尋にうすうす惹かれるのも無理は無いだろう。しかし、千尋とは正反対に、湯屋から拒絶され、その周辺にうろつくカオナシは、いったんキレると、反抗も猛烈だった。もしかして、カオナシに象徴されるのは、経済的に不自由が無い、一般大衆から遊離した、空虚な生活を送っている裕福な家の子弟かもわからない。そうだとすれば、カオナシの孤独、貪欲、キレやすさ、そして最後ゼニ婆のところではじめて労働の楽しさを味わった満足感も理解に難くない。もちろん、カオナシは現実のだれかれがモデルではなく、むしろ人間として誰も持っている裏の一面であると考えても差し支えないだろう。なぜなら、「顔無し」という名前にも示唆されるように、普段われわれはいろいろな顔を人に見せるが、それが「表の自我」であるのに対して、われわれには顔を持っていない一面がある、それが「裏の自我」である。

さて、ハクはどうだろうか。結局、千尋の幼なじみだった!正直なところ、ハクの正体の謎がようやく解けたその瞬間から、私にとって「ハク」は「ノスタルジア」の代名詞となった。ハクは、千尋が小さい頃落ちた琥珀川のことだった。小さい頃といえば、いまの千尋が10歳だからせいぜい四、五年前であろう。そのとき、ハクはきれいな川で、千尋が水遊びに行ってうっかりその中に落ちてしまったのだろう。ところが、ハクがこの世界へ来たのはなぜだろうか。川の神様がオクサレに落ちぶれたことを考えれば想像には難くない。オクサレの中身を見れば実に豊富で、人間の使い捨てのごみが何でもあった。大量生産・大量消費のおかげで、ごみが山積し、川が汚染され、ひいてはごみに埋もれる。ハクは、ごみに埋もれ、生き場が無くなるという悲しい立場に追い込まれたのだろうか。しかも、わずかの四五年の間で、千尋がまだ成人しないのに、そのきれいなハクが消えていき、それとともに、千尋の子供時代が時間の彼方へ去った。「一度あったことは忘れない」とゼニ婆が語ったように、子供時代にあった風景は記憶から去っていない、しかしそれはもはや取り壊されたり、変貌したり、消え去っている。しかし近代社会においては、それはどうしようもない。近代の人間はいつよりも、過去へのノスタルジアの中に生きていかなければならない。

『千と千尋の神隠し』はざまざまな事象を私たちに、面白くかつ意味深く呈示した。それだけに、この作品にいろいろな読まれ方があるのは不思議ではない。結局、宮崎監督が一体何を訴えようとしたかを問うことより(それを解明することは簡単なように思われる)、むしろ、その作品が一般にどう受容されているかが大切ではないだろうか。つまり、普通の人がこの作品から何を読み取り、或いは暗黙のうちにどんなイメージ(その輪郭があいまいにせよ)を持ったかが、より注目に値するように思う。

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