『Shall We』ダンス?

ちょっと特別なタイトルだなという感じがした。そもそも「ダンス」は西洋伝来のもので、ハイカラな雰囲気が漂う。それに、「Shall We」を付け加えると、いっそうその感じが強くなる。もう、先入観が出来ている。

ところが、ストーリーのはじめはごく日本的なシーンの連続だから、多少裏切られたような気がする。「ごく日本的なシーン」というわけの分からぬ表現を用いているが、詳しくいうと、日本でどこでも見えそうなサラリーマン、日本では理想的なこぢんまりとした家、何の変哲もないオフィス、一切合切、型にはまった日本中流のタイプだ。こうした退屈なほど平凡な生活の中に、一縷の望みの光が差し込んでいる。がちがちにできあがった堤防には、ひびが走っているように。主人公がダンスの教室の美人先生に向かって、一歩踏み出すごとに、危機感が高まる。こうした状況は、主人公が先生を食事に誘って断られたことを機に、進行方向が変わった。主人公の心の中も変質していく。われわれには、緊張感が期待感に変わった。予想通りのハッピーエンドが待ちうけている。

アメリカでも、「Shall We ダンス?」が大変受けているそうだ。中国でも、「談談情、跳跳舞」というタイトルで流行っている。この映画には世界中の人々が引きつけられるのだろうか?
映画の中で、主人公が平凡な生活を送っている。或いは、整然とした秩序の中に生きているといっても差し支えない。しかし、心の中で、なんとなく物足りない。「妻に不満があるわけでもないが、娘が可愛くないわけでもない」のに、何が欠けているような気がする。このような気は、電車の中でダンススクールの窓際に立った先生の寂しげなシルエットを見たとたん、漠然としたまま急に膨らんでいった。その先生に会いたいという耐えられない衝動に駆られて、彼はためらいながら決定的な一歩を踏み出した。しかし、彼は、自分が何を求めているのかということをはっきりと意識しているわけではない。実は、彼は何かを求めるのではなく、ただ単にこれまでの生活圏から離脱したいだけなのだ。もちろん、彼は永遠にぬけ出るつもりは全くない。だから、正確にいえば、彼は秩序の束縛から一時的解放を図るのだ。
ところが、主人公にとっては、これは一種のアドベンチャーだ。生涯をかけて築いてきた生活のシステムを崩壊に導く巨大なリスクが伴うのだ。特に、先生に恋を持つことは、壊滅的な危険がある。だから、先生に残酷なほど断られたら、かえってすがすがしい気持ちになった。それ以降、彼はダンスに異常な情熱を燃やし、没頭していった。
ところで、ちょうど今は、世界中ワールドカップを見ているところだ。動員した視聴者数からすれば、全人類の視覚的饗宴といっても過言ではない。人々は生活の時間的、空間的ルールをことごとく打ち破って、「乱れている」生を存分に享受している。台湾の漫画家朱徳庸の話を思い出した。「通勤って、この世界で最もつまらないものだ」、と。「通勤」に象徴される日常生活の秩序やルールは、契機が現れるたびに、打破すべきものとなるのだ。その契機は、映画の中の偶然な出会いでもよければ、ワールドカップでもいい。

社会学者によれば、人間は、コスモス(秩序)とカオス(混乱)の繰り返しによって、エネルギーを蓄積、放出する。コスモス(秩序)とカオス(混乱)の繰り返しは、時間的には週末、祝祭日、レジャータイムなど、空間的には娯楽場などによって実現する。もしかして、われわれは、「通勤」を含めたすべての社会的システムを再検討し、もっとやさしいものにすべきかもしれない。映画は終わったが、主人公の生活はこれからどうなるのだろうか?ダンスが生活の一部となった後、生活はまだもとの退屈に立ち返るだろうから。

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