別れるための恋

柔らかな夕焼けに染まった海と港町。「別れの曲」の中に、フェリーが遠ざかっていく。これは、『さびしんぼう』の中の一番印象的なシーンだ。

以前どこかで見たようなこのシーンは妙に、頭に残り、しつこく再現してくる。そう、『伊豆の踊り子』のラストシーンと似ているではないか。一生懸命振っている踊り子の手の向こうに、「私」の乗る船が静かに去っていく。「私」は、ふと頭を挙げると、遠く踊り子の姿が目に飛びつく。「私」は涙を禁じえなくなった。

「さびしんぼう」を目送っているヒロキの姿は、踊り子の姿と二重写しになっている。船・フェリーの行く先は、一少年にとってはまったく謎のような、神秘のカナタである。或いは、普通の人間にとっても、その行く先を知りつつも、やはり不確定、不明瞭なところだ、という気がぬぐえないだろう。そもそも、人間は、目の届かぬ遠方(或いは、神秘のカナタ)に対して漠然とした恐怖感と期待を併せ持っているのではないだろうか。目に見えるものは確かだ、という一種の信仰みたいなものが人間にあるのだ。そして、いったん視野から離れると、急に幻滅感が生じてくる。

そういえば、ピエロのような格好をしたあの謎の女の子も、「神秘のカナタ」にいるのだ。しかし、彼女は、たち現れるのも消えていくのもあまり速いので、われわれはいつの間にか彼女の存在に慣れていった。しかし、彼女はあくまでも、いつかはカナタの世界に立ち戻らなければならない、不安定の存在であった。言い換えれば、彼女が身をあらわすその瞬間から、すでに危機を孕んでいる。こうした危機は、何回も現れたり消えたりしているうちに、、忘れられていこうとしたころ、「水に濡れちゃうと消えちゃう」という呪文のような言葉によって、再び高まってくる。私は心配し始めた。この心配は、ヒロキのクリスマスプレゼントを手にした「さびしんぼう」(ゆり子?)が立ち去る時のと同様なものであった。結局、さびしんぼうはもう二度と出ていない。彼女も雨の中に出現して、ヒロキに抱かれたまま急に消えた。この場面を見て私は胸がぎゅっとしめつけられた:ついにカナタへと帰ってしまった。

この謎の女が一体どこから来ているか、という問はすでに、無意味になっている。ぼんやりとした「カナタ」からだ、ということでよいのだ。私から見れば、ピアノを弾く高校生のさびしんぼう(ゆり子?)とて、突然現れては消えていく謎の女より、真実な存在ではない。。両者ともに、不安定な、いつでも目の前から消えていきそうな存在であった。おそらく、主人公のヒロキから見れば、同様なことがいえるだろう。われわれには、はっきりと未知や未来を予言できる者が誰一人いない。ましてや、未来や未知に対して、一少年に何が出来るというのだろうか?少女が自分に対してどんな思いを抱いているのだろうかということが強大な未知として、少女との恋をいかに発展させていくのかということが不安な未来として、息苦しくのしかかってくる。少年は、これらに対して全く無力であるがゆえに、つらくて美しい恋を体験したのである。少年は、少年たるゆえに、少年しかできない恋をできたのである。

ショパンの「別れの曲」がいまだに耳に残っているような気がする。「別れの曲」は不吉の予言のように聞こえる――別れを前提とした恋に、ヒロキは落ちたのだ。初恋の結末は別れだ。一度別れる恋をして、初めて成長するのだ。一度寂しい思いをして初めて生きていることを自覚するのだ。

ヒロキのお母さんには、ヒロキが経験したものと似たような恋物語があるだろう。さらに、お父さんにもあるだろう。だから、「恋をして」と言っているのだ。お父さんの後を継いで、読経に明け暮れるヒロキの頭に去来するのは、別れの曲を弾くさびしんぼうだ。おそらく、お父さんが木魚を叩いてお経を読んでいたとき、脳裏には彼の「さびしんぼう」がいるだろう。人は恋をするときさびしんぼうとなる。人は恋の思い出にふけるとき、またさびしんぼうとなる。木魚の響き、読経の声は、まるでこのようなことを語っているように思われる。

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